杏里の《オリビアを聴きながら》のサビの終わり「疲れ果てたあなた私の幻を愛したの」と歌われる部分のコード進行を専門用語で「クリシェ」という。
「クリシェ」とは、あるコードを保持しつつ、そのコード構成音のうち一つが半音ずつ隣の音へずれていくパターンのことで小林明子の《恋に落ちて〜Fall in Love》のサビ終わりや福山雅治の《恋人》のサビ終わりなど、クリシェを取り入れたJ-POPは枚挙にいとまがない。
これらの曲を聴くと、クリシェが聴き手の感情を強く揺さぶるエモーショナルな効果を有していることを理解できるだろう。
しかし、クリシェの語源がフランス語のcliché(常套句)であるように、クリシェの安易な使用は、陳腐な印象を聴き手に与えてしまうこともある。
そんな中、優れたセンスをもってクリシェを使用し、最良の効果を得ることに成功した曲がある。それが、平松愛理の1992年のヒット曲《部屋とワイシャツと私》で、クリシェはAメロの最後に「ちゃんと聞いて欲しい」という言葉の背後にさりげなく登場する。
ぜひクリシェのサウンドを意識しながら《部屋とワイシャツと私》に耳をそばだててほしい。Aメロの終わりのなんてことのないメロディに乗せられた「ちゃんと聞いてほしい」という言葉、その「行間」をクリシェのサウンドが語っているようには感じないだろうか。
J-POPの多くは、感情を揺さぶるメロディや言葉を「強調する」目的でクリシェを使用している。一方、平松愛理はクリシェを「言葉なくして語る」ためにさりげなく使用した。
それこそが平松愛理の優れた作曲センスであり、その点において《部屋とワイシャツと私》のクリシェの使い方は他から抜きん出ているのである。